鬼瓦のルーツ

私共が生業とする鬼瓦は建築業界では昔から「鬼板」と呼ばれていました。鬼板を作る職人は鬼板師と呼ばれ江戸時代より平瓦を作る瓦師とは分業になっていました。

日本の瓦は飛鳥時代に渡来した仏教に伴い導入されたもので、約1400年前に飛鳥寺を作るために百済し国より来朝

した技術者の中にかわら博士がおりました。蘇我馬子・聖徳太子と共に工を起こしたと伝わっています。瓦は当初、主として仏教寺院等のみに使用されていましたが、聖武天皇の神亀元年には五位以上および富民に許され、板葺、茅葺が瓦葺に改められました。この頃の棟飾り瓦、軒瓦の紋様は蓮花紋で、今日のような鬼面の鬼瓦が登場するのは、時代が下ってからです。

私は仕事柄、いろいろな人から鬼板のルーツについて聞かれるのですが、不明な点が多々あります。推測の部分が圧倒的に多いのですが、調べてみました。島根県の西川遺跡という、今から3000年前の弥生時代の遺跡から棒刺しにしたイノシシの頭蓋骨が出土しています。これを高いところに捧げて、巫女が魔除けの祈祷をする風習があったそうです。家を自然災害や火災から守り、自然に感謝する意を表わしていたと考えられます。東北アジアのツングース民族には最近までこの風習があったので、朝鮮半島を通って日本に入ってきたのではないかと思います。このいのししの頭の代替賭して、木の板にいのししを彫刻して家の破風板や棟飾りとして捧げたのが鬼板の起源ではないでしょうか。

奈良時代になると、鬼板は古代獣面として出現します。牙をむき出す顔はイノシシの顔のようです。こうした獣面は、奈良時代から鎌倉時代まで鬼板の主流でした鎌倉時代後期になると、ようやく角の生えた鬼面のついた鬼瓦が出現します。これは日本独特の鬼面瓦です。平安時代には酒天童子や菅原道真公が鬼になって復習すると言う物語が誕生しています。その鬼のイメージが人々に共有されたのではないでしょうか。中世に入ると、寺院以外の大名屋敷や城郭建設の鬼瓦に、猪の目が入った猪の目の鬼板も見られるようになります。中心には家紋を入れています。猪の目とは イノシシの目の形(ハート型)で、鬼面以外の鬼板に付けられています。鬼板以外にも、破風板を飾る猪の目懸魚、猪の目燈籠、兜の鍬形等に猪の目は使われています。こうした猪の目は、魔除けの象徴として古代から受け継がれてきたものです。鬼板が発達した理由としては、神社や公家の屋根は桧皮葺や?葺が多く、曲線が優美でしたが素材が軽く棟が風に弱いせいもあったでしょう。棟を瓦で葺き、棟の端は瓦と漆喰で塗り固めた重量のある鬼板にしたようです。

 

  猪目(拡大)
猪目懸魚(いのめげぎょ) 石祠(せきし)の猪の目